FC2ブログ

--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2013-12-29

資本主義の断末魔 XⅣ

3-4.png

                                                   PDF

                      produce
             資本主義の断末魔 XⅣ
                                              2013・12・10
             聖書の正体 『燔・han』Ⅳ


「イエスの実像」

1.世界中に「要保護者」(弱者)の人達が沢山いる。
2.この人達は臨床的に、例えばベーシックインカムとか生活保護で互助共済するとしても
  現状下では、とても救済しきれていない。
3.その「要保護者」(弱者)が発生する原因を突きとめて、それを除去しなければ、社会正義
  は実現できない。
4.言うまでもなく社会正義を実現する機関が国家であり政治である。
5.だから社会正義が行われてない国家や政治がまかり通っているとき、社会不正義である
  「要保護者」(弱者)が増加する。
6.「要保護者」(弱者)の増減が社会正義・不正義のバロメーターなのである。
7.その増減の最大の原因は私有財産制度に基づく個人主義・利己主義である。
8.私有財産制度においては必然的に個人主義・利己主義にならざるを得ない。
9.結局、全てのサイクルが「私有私腹」・「私利私欲」の競争社会(摩擦・軋轢)となるので、
  人のことなどかまっていられない。
10.人のことは、例え親・兄弟といえども「利用価値」としての「客体」でしかなく、親子関係も
  「利用価値」が基準となる。
11.親が子を生むとき、夫は妻を、妻は夫を「夫婦愛」という形で「受容」する。
12.「夫婦愛」の元には、男女の恋愛や、男女のご縁があって、その男女は結ばれるのだ
  が、その結婚が「政略結婚」であるとか「詐欺結婚」あるいは「擬似結婚」(親が決めた結婚
  とか、できちゃった結婚)等の場合は、相手の「利用価値」が根底にあるので、生まれた子
  供は「利用価値」の産物でしかなく、所謂「夫婦愛」という「愛の結晶」としての子ではない
  ため、その子は必然的に「渇愛の子」として生まれ育つ運命を背負う。
13.イエス・キリスト教の根本は「犠牲愛」(燔愛)である。
  イエスの説いた「愛」は「犠牲愛」(燔愛)だからである。
  「イザヤ書」という呪いの書から生まれたイエスの「愛」は、所詮呪いなのだ。
14.「政略結婚」「詐欺結婚」「擬似結婚」(親が決めた結婚とか、できちゃった結婚)等の場合
  は男女の両方か乃至は片方の者が、この「犠牲愛」(燔愛)の運命に晒されるので、そこ
  に生まれた子はイエス・キリストのように「両親」(父ヨセフ、母マリア)に対して「無視」の
  態度をとる。父ヨセフに対しては100%「無視」、母マリアに対しても一貫して「婦人よ!」と
  して呼び捨てにし100%「無視」の態度をとる。自分が「渇愛の子」(父不明・母不信)だった
  からである。
15.これは完全な「犠牲愛」(燔愛)=「渇愛執着」の姿で、ユダヤ教律法・その第五「父
  母を敬え」に反した「律法違反」の最たるものなのだ。
16.私(新村)イエス・キリスト教を「エセ宗教」として弾劾する第一の理由は、イエスの際
  立った「親不孝」である。
17.イエスは全くの「気の触れた精神病者」である。
18.子にとって親こそが「神」であり、親あっての「自分」なのだ。
19.「自分」を産み育ててくれた親をないがしろにするような、イエスのどこに「神性!」がある
  というのか。
20.イエス・キリスト教という宗教は、人間秩序の根本(親子関係)からして間違っている。
21.イエスほど女の腐ったような女々しい男はいない。イエスが十字架で息を引き取る時、
  「主よ、主よ。なんで私を見捨てるのですか」と、呪いそのものの泣き言を言っている。
22.当時のユダヤ教の人達はヨセフスが斯く言う通り、老若男女を問わず、
  極めて「殉教精神」が旺盛で、泣き言どころか、どんな拷問を受けても、平然且つ毅然と
  して死んでいった。
23.そういう殉教の最中にあって、「我こそはメシアなり、神の子なり」と意気がっていた
  イエスの死に様としては、何と無様な……最後の最後まで神に命乞いをしている有り様
  ……オウムの麻原以下でしかない。
24.イエスが磔になった直接の原因は「神殿冒涜」である。
25.どこの世界に「神殿」に対して「乱暴狼藉」を働くバカがいるのか!!
26.どこの世界だって「神殿」は敬虔な「神殿」なのだ。
27.日本で言えば「神殿」は「神社仏閣」である。その「神殿」=「神社仏閣」の祭事の時に
  「気に食わない」という個人的私情で暴れ回り、露店をひっくり返す等、言語道断のキチガ
  イ沙汰としか言いようのないことをしでかした。ヤクで狂ったポン中ですら、そんなイカレた
  ことはしない。
28.元々、イエス・キリスト教パウロペトロマルコをたぶらかして、でっち上げた虚構
  の物語であり、パウロ自身の『回心』(律法オンリーのパリサイ派から、律法フリーの
  パリサイ派に転向)
に拠るもので、「ナザレのイエス」なる風来坊などどこにも存在しな
  い。
29.パウロ旧約聖書の大預言書「イザヤ書」をネタ本にして、クムラン宗団エッセネ派
  の「義の教師」=「エゼキアス、ユダ親子」をモデルとし、そのエッセネ派から独立開教し
  た「洗礼者ヨハネ」のキリスト教をパクリ、パウロ『回心』(律法オンリーのパリサイ
  派から、律法フリーのパリサイ派に転向)
物語にしたのである。
30.本物のキリストとは「洗礼者ヨハネ」のことである。このことについては別掲 「義の教師」
  と「イエスの実像」をご照覧下さい。
31.要するにパウロというペテン師が、ローマ帝国に阿ねいてイカサマの「愛」=「犠牲愛」
  (燔愛)
=「渇愛執着」(大煩悩・貪欲)を説いたために、その「犠牲愛」(燔愛)=「渇愛執
  着」
(大煩悩・貪欲)が、その後、時の権力者(コンスタンティヌス)に受け入れられ、律法
  フリー・翻って律法無視が世界中にはびこってしまったのである。
32.イエスの「両親無視」という「親不孝」が、パウロ『回心』(律法オンリーのパリサイ派
  から、律法フリーのパリサイ派に転向)
動機で、今風に言えば「親離れ」ということなの
  だ。
33.本当の「愛」というのはイエスの説く「心貧しき者」への「神の国」ではない。
  「心貧しき者」とは「分別の余裕のない者」という意味で、「考える時間すらない」過重労働
  者(奴隷・奴隷予備軍)をいうのであって、この人達への「愛」は「安息日」の順守しかない
  のである。
34.今、私達現代人は日曜日や祭日を「休日」にしている。これは旧約聖書の創設者モーセ
  が、「十戒」を定めてくれた「安息日」(土曜日)という律法のお陰である。
35.この「安息日」という律法をイエスは屁理屈を言って無視し破った。
36.パウロ=「虚像のイエス」は、それまでの律法オンリー・パリサイ派を、律法フリー・パリ
  サイ派
に変えていったのだ。
37.イエスが本当のメシア(救い主・キリスト)ならコンスタンティヌスキリスト教をローマ
  の国教にした時、ユダヤ人は一律に救われた筈である。
38.ユダヤ人ユダヤ教(律法オンリー・パリサイ派)は、むしろ反対に迫害された。架空
  のイエスを殺したというとんでもない嘘八百の濡れ衣を着せられてである。
39.歴史的事実は、タキトゥスがその著「年代記」で斯く言うように「しかし元首の慈悲深
  い援助も惜しみない施与も、神々に捧げた贖罪の儀式も、不名誉な噂を枯らせる
  ことはできなかった。民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこで
  ネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の
  こんだ罰を加える。それは、日頃から忌わしい行為で世人から恨み憎まれ、『クリ
  ストゥス信奉者』と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となった
  クリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥス
  によって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっ
  ていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみな
  らず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされる
  この都においてすら、猩獗をきわめていたのである」
としか記録されていないのだ。
40.それはピラトに処刑された「洗礼者ヨハネ」のことであって、「ナザレのイエス」などとい
  う、気の触れた風来坊のことではない。
41.タキトゥスがいう「キリスト信奉者」とは「洗礼者ヨハネ」より、洗礼を受けた数多の「メシ
  ア信奉者」
=「キリスト信奉者」のことである。
42.遠藤周作「イエスの生涯」を書いたのと同じく、パウロ福音書の絵図を書いたの
  だ。
43.「心貧しき者」の意味すらわからない物書きが得意満面となってイエスの生涯を書いてい
  るが、所詮は貧乏を知らない世間知らずの絵空事で、イエスの説いた「愛」を、「犠牲愛」
  (燔愛)
=「渇愛執着」(大煩悩・貪欲)と理解できず、「右の頬のみならず左の頬」まで、
  権力者の嗜虐趣味の餌食(人の不幸は蜜の味)にしてしまった。
44.畢竟、正当な「労働対価」の100倍~100万倍超の『不労所得』を貪る貪欲な格差社会
  の帝王や貴族達は、紛れも無いイエスが説いた「犠牲愛」(燔愛)=「渇愛執着」(大煩悩
  ・貪欲)の申し子であって、この構図は、「モーセがつき、イザヤがこねし神の餅、座り
  しままに食うはイエス」
なのだ。貪者(どんじゃ・痴れ者)にとってイエスは正に「神」な
  のである。
45.「愛」とは慈悲であり温かい敬意なのだ。左の頬を差し出して嗜虐者(痴れ者)
  満足(人の不幸は蜜の味)に与することではない。因みに、「憎」とは冷たい他意
  (敵意)である。

46.とどまるところを知らない『不労所得』増大の元凶こそ、イエスの説いた「犠牲愛」(燔
  愛)
=「渇愛執着」(大煩悩・貪欲)にあることを、全人類は、とくと知るべきである。

                中世期最大のギガス写本
                  (別名 悪魔の聖書)



  要するに右の悪魔の絵を挿入することによって聖書が「悪魔の聖書」であることを証したの
  である。中に掲載されている悪魔の絵。悪魔に魂を売った僧侶がこの写本を作ったという
  伝説がある。

                                                   PDF

        聖書の正体『燔・han』Ⅴ……ご照覧下さい

                       根絶
                      六大差別
               宗教人種文明制度職業貧富

            日本義塾 主宰 新村紘宇二
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

乞食坊主

Author:乞食坊主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。