井の中の蛙で生きるか
飢餓戦場を正して生きるか私(聖 四門)は小学生の頃、自分の人生は『太く短く』生きるんだと決めていました。
昭和十五年二月一日生まれですから終戦直後の昭和二一年~昭和二七年頃迄の混乱期と復興期の狭間での感慨でした。
その頃の娯楽や情報は専らラジオで、私は広沢虎造の「清水次郎長伝」や玉川勝太郎の「天保水滸伝」、春日井梅鶯の「天野屋利兵衛」や「南部坂雪の別れ」等の「浪花節/浪曲」に聞き惚れて、大人になったら立派な『侠客』になって『細く長く』のんべんだらりんと生きるのではなく、スッキリと男らしく『太く短く』死んでいくんだと決めていたのです。
所が、現在七十歳で直に七十一歳になる今となっては、結局『太く短く』潔く、男らしく死ねずに、のんべんだらりんと生き延びてしまったわけで、我ながら、人生の何たるかを考えさせられるのです。
ラジオの時代からテレビの時代になり、娯楽や情報は『映像』という『見れる』時代になり、少なくともラジオのように『聴く』だけではなくなったのです。
それだけ脳裏に娯楽や情報が重なって焼き付き、地球規模の出来事が把握できるようになり、教科書にない世界が日一日と広がっていったのです。
そうして色んな事を知るに至り、『金さえ手にいれればどんな物も買える』『金を手っ取り早く手に入れるには宝くじに当たるか博奕に勝つか』だと短絡的な考えに染まっていったのです。
こういう考えを持つに至ったのは両親のせいでも家庭のせいでもなく、それは私自身の『自我』が『人』(自然人)から『人間』(支配者)に脱皮していったからです。
千差万別の職域があり職業があり、その夫々に支配者/雇い主と被支配者/従業員がいるわけで、被支配者は常に支配者が撒く『餌』の良し悪しによって職業を選択するのですが、『雇用』という『市場』が被支配者に有利な『売り手』なら、それなりの『餌』にありつけ、反対に不利な『買い手』なら、買い手側の撒く『餌』にしかありつけず、乃至は『失業』と謂うとんでもない事態に陥って、『餌』にありつけない『飢餓戦場』に置かれてしまうのです。
この『飢餓戦場』にある者は、生きる為に何でもするのです。
財物を求める「領得犯」は、心身共に『飢餓戦場』にある者で、この『飢餓戦場』こそ、人類世界に絶対にあってはならない『戦場』なのです。
にも拘らず、テレビから流れる世界中至る所の『飢餓戦場』は、一体、誰の仕業なのでしょう。
それは『
領袖』といわれる『
井の中の蛙』の仕業なのです。
二十歳ぐらいで死んでいこうと思っていた私は、テレビの登場で、自分が如何に『
井の中の蛙』
(あんたが大将)であったかを知ったのですが、浪花節の生き様に焦がれ、博奕打ちになり、そして坊主になって、
やっと蛙から人になったのです。
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