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2012-02-05

「超人粉」 鎮魂歌 (1)

「龍馬人気」に肖る者は
龍馬の怨霊を鎮魂せよ

龍馬暗殺の黒幕

黒幕 グラバー
1 坂本龍馬グラバーが初めて会ったのは1864年2月で、
  勝海舟とともにグラバー邸を訪れています。
  龍馬30歳、グラバー28歳の時でした。
  龍馬はグラバーの海洋思想に心酔、その年の10月~翌年4月まで
  幕末史から姿を消し、英国・和蘭に密航しフリーメーソンの洗礼を受け
  帰国直後の5月に亀山社中(後の海援隊)を興したのです。
  こうしてグラバーの盟友(走狗)になったのです。
  龍馬は1862年(文久2年)3月に脱藩していますが、当時脱藩は藩に対して
  罪を問われて逃亡、もしくは食えないからホームレスのように都会に
  職を求めてするもので、脱藩には刑罰が伴い、家族にもその刑罰は及びます。
  龍馬がそれほどの罪を犯した形跡はなく、彼自身が「見聞を広げるために
  自由に羽ばたきたい」などと、厳格な武家社会に於いて、下級武士が自分が
  属する藩から脱藩できるような時代ではありません。
2 土佐藩でいうと、公武合体派吉田東洋が率いる勢力(東洋義弟の後藤象二郎
  岩崎弥太郎ら)と、尊皇攘夷武市瑞山が率いる勢力(坂本龍馬や中岡慎太郎ら)
  があり、それぞれの勢力からスパイを送り込み情報収集していたのです。
  龍馬は武市瑞山の縁戚であり武市派幹部(舎弟分)として活動していました。
  尚、後に武市瑞山は吉田東洋暗殺の咎で切腹させられております。
  土佐藩にとっては、龍馬は江戸の経験を持ち、江戸の千葉道場や佐久間象山塾
  で、勤皇派に顔を売っており、脱藩の下士(郷士)でもあったことから、
  藩に問題が及ぶようなことになれば、いつでも龍馬を斬り捨てる事ができたの
  で、彼は好都合でありました。
3 当時の下士に対する差別はひどいものがあり、住む場所も城下ではなく商人や
  職人の住む郊外、登城する服装も細かく規定され、
  上士は麻の裃(かみしも)に絹の鼻緒が許されていたのに対し、
  下士は紙の着物しか許されておりませんでした。
4 また、二本差しは許されているものの、なんと百姓・町人と同様に
  斬り捨て御免の対象であった為、幕末混乱期のスパイ活動は、
  藩が下士を送り出していたケースが多かったのです。
  千葉道場などの有名道場には、全国から諜報活動の任務を負った者達が集まり、
  お互い情報交換の場としていたのです。
5 龍馬の場合も、形の上では「剣術習得願い」が提出された事になっていますが、
  下級武士からそのような大それた願いが出せるわけでもなく、
  またそれが受理されるほど武家社会は甘くはありません。
  彼は、土佐藩から諜報活動の任務を受け、千葉道場へ送りだされたのであり、
  その証拠に龍馬の江戸行は、藩の家老福岡家の
  「御用日記」にきちんと載っています。
6 幕府は朝廷の動き、またグラバージャーディン・マセソンロスチャイルド
  サッスーン、英国政府の動きが気になるところで、神戸海軍操練所に所属する
  勝海舟と龍馬を使って、戦艦の操縦技術を教わりながら、外国人教官から様々な
  海外の情報を収集していました。そういう意味では、坂本龍馬は土佐藩と徳川幕
  府のダブルエージェントであったといえ、脱藩しているのでどこの藩にも属さな
  い、また度胸がありどこにでも踏み込み、人懐っこく人を惹きつける魅力のある
  龍馬は、グラバーにとって理想的なエージェント(パートナー)と映ったに違いあ
  りません。
7 慶応三年(1867年)11月15日、京都河原町三条の近江屋で、
  盟友の中岡慎太郎とともに、龍馬は幕末の露と消えました。
  坂本龍馬 享年33歳。その暗殺の真相は!
8 当時の時代背景をよく知っておく必要があります。
  フランスは徳川幕府に洋式軍隊建設を働きかけ、武器販売をしようとしていた
  のに対し、グラバー、ジャーディン・マセソンなどイギリス勢は、
  薩長をはじめとする維新軍をけしかけ、武器を売りつけようとしていたのが、
  幕末日本の状況です。
9 日本も、フランスとイギリスにより幕府軍と維新軍に分断され、内戦により
  アメリカ南北戦争の終結で経営難に陥った軍需産業の企業が、
  政府のバックアップで日本市場を狙い、大量の在庫の兵器は上海市場に流れ、
  大小さまざまな欧米の商社が、日本でのビジネスチャンスに狂乱していたのが
  幕末の日本です。
10 戊辰戦争が始まり、ビジネスチャンスを逃すまいと、大量の兵器をジャーディン
  ・マセソン社に発注し、上海に在庫を持つグラバー、焦げ付きを恐れてイギリス
  政府にも働きかけるジャーディン・マセソン商会、維新戦争を絶対のものにすべ
  く、「English policy」 で打倒徳川を明確にし、堂々と公の文書にも維新の志士
  たちをエージェントと書くイギリス政府。
11 もう、この戦争は誰にも止めることが出来なくなっていたのです。
  ダブルエージェントとして全ての裏を知り尽くしている坂本龍馬は、
  船中八策(起草者は後藤象二郎)で公武合体を説き、徳川に恩義を感じる
  公武合体派の土佐藩の山内容堂は、これまた全てが分かっている徳川慶喜とも
  話し合い、大政奉還により、欧米勢が期待するような大きな内戦を防ぎ、
  多くの日本人の命は救おうとしたのです。
12 これに慌て、激怒したのが、イギリス、フランス政府とその武器商人たち、
  そして打倒徳川の薩摩・長州藩であり、グラバー、ジャーディン・マセソン、
  ロスチャイルドの操り人形として、薩長の武器取引の仲介をしていた坂本龍馬は
  孤立し、グラバーにとってはもはや龍馬は邪魔な存在でしかなくなったのです。
13 然し、イギリス・フランス・薩長は、この内戦の好機を逃しません。
  薩長は倒幕の機先を制するため、山内容堂が慶喜に大政奉還の建白書を提出した
  のが1867年10月29日、慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を提出したのが
  1867年11月9日ですが、それを事前にキャッチしていた岩倉具視の画策により、
  その前日に薩長両藩に倒幕の密勅が手渡されていました。
  そして、邪魔になった龍馬が暗殺されたのが、1867年11月15日。
14 坂本龍馬の暗殺の犯人として、①新撰組 ②京都見廻組 ③薩摩藩 ④土佐藩
  ⑤中岡慎太郎 などの諸説が一般的であり、京都見廻組説が主流です。
① 新撰組説は、京都守護職・松平容保公預かりで、
  京の町の治安維持に当たっていた警備隊で、倒幕の志士達を斬り殺しています。
  新撰組が疑われたのは、現場に新撰組の下駄があったとか、
  元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て、
  新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かった
  ものの、近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定しており、
  いろんな証言が食い違いすぎいます。
② 京都見廻組説は、京都市中の取り締まりを、主任務とする幕府の警備隊で、
  新撰組と同じようなものですが、元京都見廻組の今井信郎渡辺篤らが後年、
  龍馬襲撃を証言しているものの、食い違いも多く真実と結論付けるには
  至らないものの、倒幕側と見られていた龍馬を暗殺する事は何ら不思議では
  ないので京都見廻組説が主流となっています。
③ 薩摩藩黒幕説は、倒幕を計画し徳川と一戦構えようとしているときに、
  坂本龍馬が公武合体の先方となってしまい、
  徳川慶喜に大政奉還させてしまったので、今後の武器取引にも
  坂本龍馬は邪魔となる存在になってしまったというものです。
  この説は至極自然な考えであると思われます。
  龍馬が土佐藩の山内容堂に「船中八策」(起草者は後藤象二郎)を説き、
  公武合体派の山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出したのが
  1867年10月29日、内戦を避けるために、慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を
  提出したのが1867年11月9日
  その直後の1867年11月15日に、坂本龍馬は暗殺され、
  薩長は徳川を挑発し1868年1月27日に鳥羽伏見の戦いが始まっているのです。
④ 土佐藩説では、中岡慎太郎が死ぬ直前に残した証言で、刺客が土佐弁で
  「こなくそ(=この野郎)」と言ったとしていますが、重要なのは雇ったのが誰かで
  あって、刺客が何弁を喋ろうが重要ではありません。わざとに、土佐藩の仕業に
  見せかけるために、土佐弁を使った事だって考えれるのです。
⑤ 中岡慎太郎説ですが、同じ土佐藩の親友である海援隊の坂本龍馬、
  陸援隊の中岡慎太郎が斬りあったとはとても思えませんし、いつも行動を共に
  していたのですから、いつでもチャンスはあったわけで、何故に大政奉還の直後
  に龍馬を殺さねばならなかったのかという理由がありません。
15 新撰組説、京都見廻組説が、しっくりこないのは、
  彼らにしてみれば倒幕側の坂本龍馬は以前から狙えたわけで、
  わざわざ大政奉還の直後に行ったのは何故かという疑問です。  
  何故なら、龍馬が公武合体を唱えている時期は、むしろ徳川から見れば、
  倒幕派の大物で唯一コンタクトを取る事が出来るのが坂本龍馬であり、
  彼は打倒徳川ではなく、朝廷の下で徳川を他の大名と同じ立場に置き、
  発言権をも認めるというもので、かつ民の事をかんがえると、
  同じ日本人同士で殺し合いをしなくて良いわけですから、
  決して悪い話ではありません。
  即ち、この時期に龍馬を狙うのは得策ではなく蓋然性もありません。
16 坂本龍馬の「船中八策」(起草者は後藤象二郎)・公武合体により、
  内戦を避けるべく龍馬が活動して困るのは、薩摩藩だけではありません。
  誰より困るのは、既に大量の艦船、大砲、銃、弾薬を
  見込みで発注をかけているグラバーであり、不渡り手形に怯える
  ジャーディン・マセソン商会の重役たちです。
17 また、龍馬の海援隊(旧 亀山社中)がグラバー商会のダミー会社として、
  薩長と武器取引していたわけですから、龍馬が戦争反対となれば、
  薩長の立場としては徳川と戦うための武器調達が出来なくなる
  という大問題を抱え込むことになってしまいます。そうなれば、
  もう龍馬に消えてもらう以外に手はありません。ここで甘い判断を
  していると、薩長両藩の存続の危機を迎える事になってしまいます。

黒幕 後藤象二郎
18 龍馬を暗殺した場合、武器取引の商社である海援隊(旧 亀山社中)をどうするか
  という問題ですが、ここで後藤象二郎(共謀者 岩崎弥太郎)のどす黒い影が浮上
  するのです。
19 「船中八策」(起草者は後藤象二郎)を「龍馬案」として山内容堂に提案し、
  功績を挙げた後藤ですが、先にグラバーや薩長両藩と関係のあった
  龍馬のほうが「主役」になり、己が「脇役」になる羽目も業腹で、
  後藤は目論見(武市派一掃・海援隊収奪)通り「龍馬を消す」術策として
  「船中八策」を「龍馬個人案」に仕立て、グラバー・薩長・倒幕派の怒りを煽り
  「龍馬暗殺」を企てたのです。
  こうして義兄東洋暗殺の武市派残党(龍馬・中岡ら)は殺され一掃されたのです。
20 龍馬暗殺の後、後藤象二郎「海援隊」を自分のものとし、「土佐商会」に改名し、
  岩崎弥太郎が主任となり、後に岩崎弥太郎のものとなってゆきます。
  さらに倒産したグラバー高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、
  自分のものとし「蓬莱社」と改名し、これまた後に、岩崎に譲っています。 
21 この2人の悪友の評判は極めて悪く、明治維新の際に、まさしく公私混同、
  インサイダー取引を繰り返し、私腹を肥やしてゆきました。
22 岩崎弥太郎は、言うまでもありませんが三菱の創始者です。
  彼は高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、
  とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、
  泥棒をしては何度も刑務所に入っています
  司馬遼太郎龍馬がゆくにも、この事実は記載されています。
23 岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で
  長崎に派遣されましたが、藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。
  もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている者としては、
  何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったのです。
24 岩崎弥太郎がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、
  後藤象二郎「海援隊」を自分のものとし「土佐商会」と改名し、その主任として
  岩崎を重用してからです。坂本龍馬がつくった海援隊や、グラバーの高島炭鉱は
  後藤が先ず手に入れ、盗み癖よろしく、官営事業払い下げという形で、
  岩崎弥太郎が最終的にそれを手にしています。
  グラバー・後藤象二郎・岩崎弥太郎は一蓮托生なのです
25 特に龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、
  後に西南戦争日清戦争日露戦争で、
  三菱のドル箱事業となってゆく事になり、後藤象二郎岩崎弥太郎
  坂本龍馬をしゃぶり尽くしているのです。
26 また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札
  を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合
  して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ています
  が、この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。
  これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やし
  ていました。
27 即ち、三菱は、三井や住友のような老舗の財閥ではないですが、
  (尤も三井は三菱と同じ狢/死の商人です)
  明治維新のどさくさに紛れて、政治家や軍事産業と密接につながり、
  デタラメをやりながら出来た最悪の財閥(最悪の死の商人)と言えます。
  確かに創始者は岩崎弥太郎に違いありませんが、坂本龍馬がいなかったら、
  また暗殺されなかったら、今日の三菱財閥はなかったでしょう。
28 龍馬暗殺の黒幕は、このように、グラバー、ジャーディン・マセソン商会、
  薩長両藩のみならず、土佐藩の後藤象二郎(共謀者 岩崎弥太郎)が、
  坂本龍馬暗殺で最も利益を受けており、龍馬暗殺をさかいに、
  グラバー後藤象二郎(共謀者 岩崎弥太郎)と密接なビジネスパートナーと
  なっていくことからも、龍馬暗殺の糸はたぐられるのです。

 龍馬暗殺の直接の下手人は「京都見廻組/佐々木只三郎」です。
その黒幕はグラバー後藤象二郎(共謀者 岩崎弥太郎)である。

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