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2012-02-20

「超人粉」鎮魂歌 (2)

船中八策の黒幕

黒幕 後藤象二郎
1 所謂船中八策龍馬説は、単なる小説(フィクション)に過ぎない
  「竜馬がゆく」(司馬遼太郎)に阿いたものです。学者までもがです。
  作られた虚像にいつしか洗脳されてしまうのです。
2 「船中八策」は龍馬が作ったものではありません。後藤象二郎の「偽作」です。
3 後藤象二郎はジョン万次郎から万国公法(国際法原理)を既に
  修学しており、又、土佐藩教授である奥宮慥斎をして横井小楠より
  先駆けて門人達は勉強し、習得していました。
4 勝海舟から坂本龍馬が「万国公法」を手に入れたのは、
  勝海舟が松平春嶽に「万国公法」を貸し出した後に作った漢訳復刻版の
  一部に過ぎません。1866年の事です。
5 漢訳本抄本の「万国公法」(国際法原理)は、1863年には上海に
  出回っており、当時上海に拠点があったグラバーが日本に持ち帰り
  ジョン万次郎に渡しているのです。1863年の事です。
6 ジョン万次郎は幕末史最大の暗躍者で、日本に帰国(漂着)した時
  その取り調べにあたったのは、薩摩藩主島津斉彬であり、
  土佐帰国後は吉田東洋河田小龍です。
7 その後ジョン万次郎は幕府に招聘され江戸へ。中浜姓を賜り中浜万次郎に。
  ついで藩校「教授館」の教授となり
  後藤象二郎、岩崎弥太郎に直接指導をしています。
  万次郎26歳、後藤象二郎16歳、岩崎弥太郎19歳。
  坂本龍馬(18歳)は千葉道場にいた頃です。
8 万次郎の活躍は翌年の安政元年(1854年)からで、造船、航海、測量、捕鯨等の
  指導の為国中を東奔西走しているのです。
9 グラバーが長崎に到着したのが安政6年(1859年)8月23日です。
  そうして薩摩藩の五代才助をはじめ松木弘安高杉晋作伊藤俊輔桂小五郎
  井上聞多近藤長次郎小松帯刀高松太郎らと
  共謀して武器弾薬の密輸を取り仕切ったのです。
10 万次郎が勝海舟、福沢諭吉らと咸臨丸でアメリカに渡ったのは1860年で、
  まだ龍馬は武市瑞山(半平太)の土佐勤王党に入る一年前の事で、
  全くの無名の徒輩です。龍馬25歳。
11 坂本龍馬が活躍しだしたのは26歳の時、
  武市瑞山の「土佐勤王党」に入り、その翌年、吉田東洋が「土佐勤王党」の
  岡田以蔵(龍馬も加担していた)によって暗殺されてからです。
12 龍馬は武市瑞山の紹介状をもって脱藩し、勝海舟を訪ね門人になります。
  龍馬27歳。
13 龍馬は勝に可愛がられ勝が開いた神戸海軍塾の塾頭に取り立てられました。
  この時、「土佐勤王党」の同志である、人斬り以蔵こと
  岡田以蔵を勝の用心棒にしたりしています。
  又この時期、勝は土佐藩主山内容堂にとりなし
  龍馬の脱藩を許してもらっています。
14 一方、万次郎は薩摩藩開成所の教授として薩摩藩士に、
  造船、航海、測量、英語等を教え、グラバーと頻繁に交流を深めています。
  なぜなら同じフリーメーソンだからです。
15 更に、土佐藩東洋派一派(後藤象二郎、岩崎弥太郎らの公武合体派)は、
  師である吉田東洋暗殺の首謀者を武市瑞山、下手人を瑞山門下の岡田以蔵、
  坂本龍馬、中岡慎太郎らとして厳しく追求しだすのです。結果、岡田以蔵らは
  捕縛され斬首の刑に、武市瑞山は切腹させられ、
  奥宮慥斎までもが加担した疑いで蟄居させられているのです。
16 坂本龍馬、中岡慎太郎は、後藤象二郎の師を暗殺した武市派の残党であり、
  なんとしても討ち果たさなければならない「仇討」の生き残りなのです。
17 後藤象二郎の執念は「復讐」であり、「仇討」の武士道の一念です。
18 後藤象二郎が、怨敵だった坂本龍馬と手を結んだ年は慶応3年の1月です。
  龍馬はこの年の11月に、京都において暗殺されます。
19 なぜ後藤象二郎が怨敵だった坂本龍馬と手を組む必要があったのでしょう。
  それは長崎でグラバー肝いりの「亀山社中」を運営し、軍艦や武器弾薬で
  薩長同盟まで成し遂げ、有名になってきた坂本龍馬を、師東洋の敵として
  「暗殺」できない事に対し、藩主山内容堂からそれとなく
  その「不甲斐なさ」を薀蓄されていたからです。
20 後藤象二郎は慶応2年ジョン万次郎とグラバーと共に上海に軍艦や武器弾薬を
  買い付けに行っています。この時、三者は「龍馬暗殺」を企てたのです。
21 グラバーにとって、龍馬は既に「変節」した男であり、日本武士道はおろか
  イギリス騎士道にも劣る「裏切者」でしかなかったのです。
  龍馬は稀代の「変節者」(裏切者)なのです。
① 龍馬は武市瑞山に見出され、武市の「駒」として勝海舟に入門したのです。
  ところが龍馬は勝の虜になり、武市が切腹させられたり同志だった
  岡田以蔵らが斬首されたりいるにも拘らず、ただ追手の後藤象二郎らから
  逃げの一手で、佐幕派幕臣の勝に匿われるように勝に追従し武市の無念を
  晴らすどころかその武士の一念を「変節」してしまったのです。
② 勝は自分の「駒」として龍馬をグラバーや、薩摩の西郷隆盛に引きあわせたり
  しました。そして、グラバーと薩摩の援助で「亀山社中」を設立してもらい、
  グラバーのダミーとして活動し、同時に、後藤らの追手から守ってもらって
  いたのです。ところが、グラバーの後ろ盾で「薩長同盟」が成立したりした途端
  に、あれ程までに面倒を見てくれていた勝海舟を裏切り、グラバーの「駒」
  なってしまったのです。勝を疎んじ始めたのです。
③ 更に、龍馬はグラバーや薩摩まで裏切るように「変節」していくのです。
  それが万次郎が仕掛けた「万国公法」です。「万国公法」は前記3の通り、万次郎
  やグラバーをして上海経由で日本に入り相当広く読まれたりしていました。
  ところが馬鹿な龍馬はその意味がわからずじまいだったのです。
  それを龍馬クラスでも判読できるようにしたのが、
  フリーメーソンの西周(にしあまね)です。
④ 「西周」はオランダ留学中に師であるフィセリングから法学を学び、
  特に「万国公法」は帰国後出版する予定で翻訳を手がけていたのです。
  つまり、漢訳でなく直接日本語に訳して
  龍馬クラスでも読めるようにしたのです。「西周」は慶応元年12月に帰国し、
  幕府開成所の教授となってその日本語翻訳の「万国公法」を教示したのです。
⑤ 龍馬が読んだ「万国公法」は「西周」の訳本で、龍馬は「万国公法」の思想に
  かぶれてしまったのです。これがグラバーや薩長を裏切る
  独りよがりの「船中八策」の正体なのです。
22 龍馬はこうして、武市瑞山を裏切り、勝海舟を裏切り、
  グラバーや薩長を裏切り、独りよがりの「世迷いごと」にすぎない
  「船中八策」の台本「万国公法」にはまっていったのです。
23 しかし、龍馬が「万国公法」にはまっていき
  「船中八策」を草案したのではありません。
24 後藤象二郎は、なんとか龍馬を長崎から京都におびき出し
  暗殺を早くする必要があったのです。大政奉還を
  山内容堂の遠慮会釈による「建白にしたかったのです。
  その為には一刻も早く「船中八策」ごときを山内容堂に差し出し、
  それを将軍慶喜に諮り、将軍慶喜が「非」と言えば、
  直ちに薩長と手を組んで「倒幕」の火蓋を切り、
  「是」と言えば既に「密約」されていた「倒幕の密勅」をして
  薩長に倒幕の火蓋を切らせる手筈だったのです。
25 後藤象二郎と岩崎弥太郎は莫逆の友であり、共に万次郎から直接指導を
  受けているいわば子飼いです。
  二人共政商を維新での「出世」であると、嫌という程万次郎やグラバーに
  叩きこまれ、完全に万次郎、グラバーの
  フリーメーソン思想・「政商」に洗脳されていたのです。
  ですから、龍馬を消し、龍馬の「亀山社中」(海援隊)を掌中にし
  「射利」を独占する事が謀られたのです。
  龍馬暗殺後の後藤、岩崎、グラバーは「射利」を共有したのです。
26 要するに、龍馬案とされる「船中八策」は万次郎、グラバーの指導で、
  後藤象二郎、岩崎弥太郎が絵図したもので、
  この事は山内容堂も黙過しての事です。
  だからこそ、「船中八策」を「坂本龍馬案」として容堂に提出し、
  後藤はえらくその功績を称えられたのです。
27 そもそも藩政を司る後藤象二郎と下士である坂本龍馬では
  身分制度の権化のような時代にあって司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で
  いうような呼び捨てなどありようがない事です。
28 後藤象二郎にとって、坂本龍馬と会うという事は、
  ただ只管、「藩主容堂がどうしてもお主からじかじかに薩長の事、
  薩土連盟の事、幕府の事(勝海舟の動静)、軍艦や武器弾薬の事、
  等々を聞きたい、といっているので、藩主容堂におめどおりしてくれ!」
  と頼み込んだのです。京都で殺す意味は、機が熟してきたからであり、
  長崎は薩摩のお膝元で、あらぬ方向に流れぬ為です。
29 どんな嘘をついてでも、龍馬を長崎から京都に「引き出し」、
  暗殺しなければ、ともすれば、藩主容堂より、維新政府で龍馬が
  重きをなしてしまうおそれがあったからです。
30 勝海舟は龍馬暗殺に一枚加わっていました。
  裏切者であり、目の上の瘤であり、時代錯誤の「万国公法」を
  振り回すうつけ者の龍馬には辟易していたのです。
  勝海舟は龍馬以前にも龍馬のように可愛がっていた赤松小三郎を、
  中村半次郎に殺させています。小三郎が身分をわきまえず
  「船中八策」もどきの御改正之一二端奉申上候口上書
  自分(勝)や、主である上田藩主松平忠固、忠礼を飛びこして
  福井藩主松平春嶽に提出したからです。

● 幕末の時代も現代も隠然として封建的身分制度は残っているのです。
  現代の「封建的身分制度」の最たるものは小選挙区制度
  三バン参尊(地盤/組織力・看板/知名度・/金銭力)です。

  「参尊零卑」が現代の身分制度。

  維新此方今日迄親の七光参尊(三バン)によって引き継がれ立候補でき
  一人だけ当選し落選者の投票数は一切無視で既得権益が享受出来るのです。
 日本の「小選挙区制度」はフリーメーソンの思想です。
  「政商」が儲かるシステムなのです。  
 聖徳太子の十七条憲法も巷間「船中八策」も、何一つとして
  真正に実現されていないのがこの世です。
  それでも一歩一歩差別格差の是正に向かって歩み続けるのです。

     寸鉄一閃 日本義塾 新村紘宇二 超人クラブ
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